住宅遺産

喜多源逸邸

※ 2016年7月継承されました

喜多邸

住宅の情報

[ 国登録有形文化財 ]
竣工 1926(大正15)年
所在地 京都市左京区北白川伊織町
敷地面積 929.07㎡(281坪)  
延床面積 225.75㎡(68.2坪)
構造 木造2階建瓦葺  増改部 木造平屋建銅板葺
設計 藤井厚二 一部増改築
施工 酒徳金之助

藤井厚二が京都帝国大学の同僚だった喜多源逸のために設計した住宅。
藤井の第4回実験住宅の竣工後、博士論文「我国住宅建築の改善に関する研究」の執筆中の建築である。京都・北白川の閑静な住宅地、白川疎水通沿いに建つ。
平屋建を理想とした藤井が、「大文字を眺めるという贅沢さ」のためだけにあえて2階建とし、外観は真壁造や桟瓦葺屋根と、深い軒や庇などがリズミカルな表情を造っている。内観は夏の暑さをさけ、明るすぎない落ち着いたものとなっている。喜多の書斎であり、時には夫人のヴァイオリンの音が響く洋室と、一段上がった和室は、椅子式と座式が混用され、続く縁側は深い庇にガラス障子で囲われ、庭の光が差し込む藤井らしい空間を造っている。庭には聴竹居と同様イロハモミジが植えられている。
1階の茶の間と納戸は改造され、北側奥の台所・水廻り・女中室は建て替えられてはいるものの、保存状態は極めて良好で、藤井の「日本の住宅」にこめた想いを現在に伝える貴重な歴史的・文化的遺産として、2006(平成18)年3月に登録有形文化財に登録されている。

設計者

藤井厚二(ふじいこうじ) 1888~1938
1888(明治21)年、藤井厚二は現在の広島県福山市の素封家(造り酒屋)の次男として生まれる。東京帝国大学工学科建築学科を卒業後、当時設計技術の近代化を急いでいた竹中工務店に設計を担当する最初の帝大卒の社員として入社し、「大阪朝日新聞社社屋」や「大阪朝日新聞社社主 村山龍平邸・和館」などを担当。当時新聞社側の顧問を務めていた建築家・武田五一と出会い、1920(大正8)年、藤井は武田が創設した京都帝国大学工学部建築学科に講師として招かれた。その後助教授を経て教授に就任し、日本の伝統的な住まいで経験的に行われてきた、日本の気候風土にあわせる建築方法を科学的な目で捉えなおしていった。
さらに自ら着目し理論化した環境工学の知見を設計に盛り込み、大山崎町の約1万2千坪の土地(山林)に実験的な自邸を、居住、実証・改善を加えながら次々と建てていった。「真に日本の気候・風土にあった日本人の身体に適した住宅」を生涯追い求めた藤井が、その完成形とした第5回住宅「聴竹居」は京都府大山崎町に現存、2013年6月天皇皇后両陛下が行幸啓され注目を集めた。

所有者について

喜多源逸(きたげんいつ) 1883−1952
燃料、人造繊維、合成ゴムなどの研究で知られる工業化学の研究者。東京帝国大学の助教授を経て、1916(大正5)年に京都帝国大学教授、1930(昭和5)年には同大の化学研究所所長を務めている。その後、喜多は浪速大学(現大阪府立大学)初代学長を務め、日本の化学の基礎を築いたと評されている。ちなみに親戚でありノーベル化学賞を受賞した福井謙一に化学への進路を勧めたのは喜多だったという。奈良県出身。著作に「油脂化学及試験法」など。夫人はヴァイオリニスト。

栗原邸

栗原邸

住宅の情報

[ 国登録有形文化財 ]
竣工 1929(昭和4)
所在地 京都市
敷地面積 1919.73㎡(580.72坪)
延床面積 394.41㎡(119.31坪)
1階182.07㎡
2階162.77㎡
3階49.57㎡
構造 鉄筋コンクリート造地上3階
設計 本野精吾
施工 岡田工務店

中村鎮(まもる)によって発明された通称「鎮(ちん)ブロック」を用いて、それを剥き出しにして建設された住宅。同じ方法で造られた本野精吾自邸(1924年)が機能性と合理性を徹底したものであったのに対して、栗原邸では、室内にウイーン工房やアールデコ風の装飾や電燈、家具などが配され、施主の染色家鶴巻鶴一によるろうけつ染の襖絵もあるなど、装飾性に富み、より豊かな表情を持つものとなっている。

設計者

本野精吾(1882〜1944)
父は鍋島藩の出で大蔵省に勤務し、後に読売新聞社の創業者として活躍した本野盛亨(もりみち)。本野精吾は、大正期から昭和初期にかけて京都を中心に活躍した建築家。日本におけるモダニズム建築の先駆者のひとり。ドイツのペーター・ベーレンスの影響を受け、建築のみならず、家具やグラフィックデザイン、食器、工業デザイン、エスペラント語の普及など幅広く活動した。

所有者について

当初、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)校長、鶴巻鶴一(1873-1942)の邸宅として建てられた。鶴巻は廃れていたろうけつ染を復興するなど、その染色技術や技法の研究は、社会変化に直面していた京都の染色産業へ大きな貢献を果たした。1941年より、大阪の広告代理店、萬年社の社長であった栗原伸の邸宅となり、現在はその子息が所有している。

※ 2018/06データ修正

岡本の洋館

※ 2020年4月継承されました

岡本の洋館

住宅の情報

[ 神戸市指定文化財 ]
竣工 1923(大正12)
所在地 神戸市
敷地面積 1032.09㎡(312.2坪)
延床面積 約434.15㎡(131.33坪)
構造 木造一部鉄筋コンクリート造地上3階
設計 木子七郎
施工 清水組(現清水建設)

玄関付きの洋館で、保存状態が良く、主体部に大きな改造は認められない。著名な建築家による本格的な設計であることは、室内の細部意匠、外壁と天然スレート葺屋根の外部意匠、玄関の力強い造形意匠、トラス構造を熟知した洋風小屋組、などの諸点によく現れている。これだけの建築を再現する事は大変難しく、かつての邸宅計画を偲ぶ極めて貴重な歴史的・文化的資産といえる。

設計者

木子七郎(1874〜1955)
明治17年、明治期の和風建築の権威として知られる宮廷内省内匠寮技師・木子清敬の四男として生まれる。東京帝国大学卒業、大林組勤務の後、大阪を拠点に多彩な設計を手がける。とりわけ、妻・カツの父・新田長次郎の出身地である愛媛県に多くの名建築を残した。

所有者について

棟札により施主実業家稲畑二郎が大正11年に建築、設計木子七郎、棟梁清水組(現・清水建設)であることが判明した。その後、宮地汽船の貴賓館となる。さらに昭和40年頃に「岡本ガーデン」という名で分譲地化する計画が進んでいた時に、旧屋敷地の中枢であった洋館部分が現オーナーの父親所有となり、かつての屋敷景観が辛くも存続できた。